『不安と人形劇』
- hinawata0mamagoto
- 4月29日
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●夜中に動き出す操り人形たち
井原西鶴が貞享二(一六八五)年発行『西鶴諸国ばなし』に記載したのが、形は昼のまねという怪異である。
「浄瑠璃の太夫に、井上播磨とて、さま〲の節を語り出して、諸人に口真似させける。ある時の正月芝居に、一の谷のさかおとしの合戦を、五段につくり、人形もひとつ〱、細工人こころをつくしてこしらえへ、役者もめい〱の魂入りて、源平西東にたて別れ、大軍の所を遣ひけるほどに、大坂中うつして、これ見物事とて、ひさしくはやりける。(略)物のさびしき夜半に、(略)楽屋番の小兵衛・左右衛門、木枕をならべ、ともし火かすかにして、はなし寝入りに、前後もしらぬ時、人の足音に目覚まし、二人ともに夜着の下より、あたまをあげて見るに、遣ひ捨てたる人形ども、物こそいはね、そのまま人間のごとく立ち合ひ、しばしたたきあひ、くひつき、血煙たつておそろし。(略)明方に鳴りをやめける。楽屋番の二人おどろき、太夫本にてこれを語る。皆々横手うつ中に、四蔵といふ古き道外のありしが、すこしも騒がず、「むかしより、同じ人形共、くひあふ事はためし多し。」宗政五十緒、松田修、暉峻康隆校注・訳『井原西鶴集➁〈全4冊〉新編日本古典文学全集67』小学館、頁一〇五‐一〇七
浄瑠璃の太夫である井上播磨は正月芝居(初春興行)にて、源義経の活躍(一の谷逆落しの合戦)を描いた人形浄瑠璃を上演していた。人形は一体一体細工人が心を込めて作り上げ、人形遣いが魂を入れて合戦を演じたことから長きに渡って大阪は道頓堀にて大盛況。そんなある夜、楽屋番の二人が人の足音を聞いて起き上がれば操り人形たちが操演者がいないにもかかわらず勝手にそして無言で昼間(上演中)のような合戦を行っていた。それは明け方に終わりを迎え、二人は事の顛末を太夫本(監督者)に伝えると皆が騒然となる。しかし熟練の道化人形遣いだけが少しも驚くことなく「昔から人形同士が喰い合うことは沢山あった」と言った、という内容である。
この怪異は後年竹原春泉によって天保一二(一八四一)年発刊『絵本百物語』にて、夜の楽屋という名称で次のように解説されている。
「木偶や泥工の坊といえども使う人が魂を入れれば、その意(ココロ)が人形の性根(セイコン)に入ってとどまる事は、芝居に携わる人の知る所である。(略)夜の楽屋で高師直と塩冶判官の人形が夜もすがら争ったこともあり、(略)元来これは人の霊を移したためである。」多田克己編、霧嶋渡訳『竹原春泉 絵本百物語‐桃山人夜話‐』国書刊行会、頁.一一五
上記は江戸川乱歩が引用(「人形」初出「東京朝日新聞」一九三一年一月一四‐一七.一九日連載)したことでも有名だが、続いて文久二(一八六二)年に宮川政運が発刊した『宮川舎漫筆』にて更なる発展形=精心込れば魂入(たましいいる)と題した怪異が次のように記載される。
「ある人形遣の人形を一箱預り置し処、其夜人静まりし頃、其箱の内冷じくなりしかば(略)箱の中にて打合音など再々ありしかば、其事を持主にはなせし処、夫は遣ひ人の精神籠りし人形ゆへ、いつとても左の如く珍しからず。右故若敵役の人形と実役の人形をひとつに入置時は、其人形喰合ふて微塵になるといえり。実に精神のこもりし処なるべし。」日本随筆大成編輯部(早川純三郎代表)編『日本随筆大成〈第1期〉16』吉川弘文館、頁.三二五
操演者の魂・精神が人形劇の演技を通じて操り人形に拡張/保管/記録されることである種の遠隔操演が発動するという本怪異は、以上のように複数の転載例が確認されることから当時はある程度の人気そして知名度を誇っていたことが推測される。
一方現代ではそこまでメジャーではないが、ヒナワタ結成前の私たちは強くこの怪異に惹きつけられた。
それは人形劇とは何か?という根本的な問いと向き合っていた私たちに新しい視点、そして自分たちが抱える精神的葛藤≒不安感(特に死への恐怖)の対抗策としての役割を見出していたからであろうことに後々気が付くことになる。

●身代り人形の歴史
人形劇とは何か、私たちは旗揚げ前よりこの問題と向き合ってきた。向き合うしかなかった、自分たちがやろうとしていることが人形劇という表現分野に坐すものなのか確信が持てていなかったから。つまるところ自分たちの手によって試験的に制作されたソレらはあまりにも世間一般が認識する人形劇という表現分野に内包される作品群とは違い過ぎていたし、それをわざわざ人形劇とラベリングする意義について議論が続いていたのだった。現代アートならばアート作品として、舞台芸能ならば演劇として出せばいい。にもかかわらず、わざわざ人形劇という表現分野に固執する意味があるのかと。
これらの問題を突き詰めていけば「なぜ自分たちは人形劇に惹かれたのか?」という個人的/精神的な問いに、もう一つは「そもそも人形とは何か?」という最も根本的な定義論に分割されていった。
暗中模索の中、私たちは人形問屋『吉徳』に生まれ発展に貢献しながら人形研究の第一人者でもあった山田徳兵衛の言葉と出会うことになる。
「人形と称されてきたものの歴史の上から、人形とはなにかということを考えてみると、人形とは、私たちの姿を模造したものである。人形は初めのころは、人間の身代わりとして扱われた。」『日本人形史』講談社.四谷シモン(編)『日本の名随筆 別巻81 人形』作品社、頁.五五
なるほど確かに日本では古来より、人形が人間の身代りとして機能してきたことが『日本書記』に収録された神話にも記されていた。
そしてそれは(身代り)人形の起源としても、芯を食っている。
「皇后日葉酢媛命 一に云はく、日葉酢根命なりといふ。薨りましぬ。臨葬らむとすること日有り。天皇、群卿に詔して曰はく、「死に従ふ道、前に可からずといふことを知れり。今此の行の葬に、奈之為何む」とのたまふ。是に、野見宿禰、進みて曰さく、「夫れ君王の陵墓に、生人を埋み立つるは、是不良し。豈後葉に伝ふること得む。願はくは今便事を議りて奏さむ」とまうす。則ち使者を遣して、出雲国の土部壱佰人を喚し上げて、自ら土部等を領ひて、埴を取りて人・馬及び種種の物の形を造作りて、天皇に献りて曰さく、「今より以後、是の土物を以て生人に更易へて、陵墓に樹てて、後葉の法則とせむ」とまうす。(略)則ち其の土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号けて埴輪と謂ふ。」坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋(校注)『日本書紀(二)』岩波書店、頁.四四‐四六
これは皇后である日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)の葬儀に際して生きたまま人を埋める殉死儀礼の代替案つまり身代りとして野見宿禰(ノミノスクネ)という人物が出雲国から土部(ハジベ)という人々を呼び出し人や馬を模した土人形=土物(ハニ)を製作させ埋葬させた、これが埴輪の起源となったという神話である。
ただし最近は博物館や展示会そして研究本でも明記されていることなので知っている読者も多いだろうが、上記神話と考古学的な知見による埴輪起源には大きな差異があった。そもそも埴輪が人型になる以前には、円筒型の埴輪が存在していたからだ。
しかし日本の神話研究における第一人者、吉田敦彦は上記神話について次のような指摘を残している。
「たとえ史実でなく伝説であっても、その伝説がそれ自体、かつてわが国で実際に行われていた、殉死者を貴人の墓の周囲に埋め立てる習慣の記憶を反映し、それに基いて創作されたものである可能性まで、強ちに否定してかかるべきではなかろう。むしろこのような風習がかつて実際に存在し、その記憶がなお人々の間でなまなましかったからこそ、このすこぶる迫真的な内容の所伝が、そのまま史実として取り扱われ朝廷の史書に採録され得たのであると見る方が、自然ではなかろうか。」『古墳と死者たちの伝奇』中野幹隆(編)『エピステーメー月号』朝日出版、頁.一四九
吉田の意見を支えるように『日本書記』には人間と埴輪≒(土)人形との癒着性を強く窺わせる記述が、次のような神話にも残されていた。
「伯孫、女、児産せりと聞きて、往きて聟の家を賀びて、月夜に還りぬ。蓬蔂丘の誉田陵の下に、蓬蔂、此には伊致寐姑と云ふ。赤駿に騎れる者に逢ふ。其の馬、時に濩略にして、竜のごとくに翥ぶ。欻に聳く擢でて、鴻のごとくに驚く。(略)伯孫、就き視て、心に欲す。(略)其の駿に乗れる者、伯孫の所欲を知りて、仍りて停めて馬を換へて、相辞りて取別てぬ。伯孫、駿を得て甚だ歓び、驟して厩に入る。(略)其の明旦に、赤駿、変りて土馬に為れり。伯孫、心に異びて、還りて誉田陵を覓むるに、乃ち驄馬の土馬の間に在るを見る。取りて代へて、換りし土馬を置く」坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋(校注)『日本書紀(三)』岩波書店、頁.六四
伯孫(ハクソン)は娘にこどもが生まれたという知らせを受け婿の家へと馬に乗って月夜に移動する最中、誉田陵(ホムタノミササギつまり応神天皇の御陵)にて見事な赤駿(アカウマ)を巧みに操る乗り手に出会う。伯孫は彼の素晴らしい馬が欲しくなり、相手も伯孫が欲しがっていることを察して交換することに。伯孫は交換した赤駿を自身の厩に置いておくが、翌朝になると土馬(ハニマつまり埴輪の馬)になっていた。伯孫は再び誉田陵を訪れると自身の馬が土馬の間に居るのを発見したため土馬を代わりに置いた、という内容の神話である。
本文には明記されていないが、神話の展開を見るに乗り手の正体も赤駿同様埋葬された埴輪つまり(土)人形であった可能性が高いものと推測されるだろう。
そして野見宿禰の神話と連結させて考えるに赤駿や乗り手が人形の心とでも呼称しようか、独立した魂を基に活動しているわけではないことも明らかである。あくまでもモデルとなった人物そして馬の魂を複製/拡張/延長し収納した存在でなければ、そもそも殉死における身代りとして機能しないのだから。
●ヒナワタにとっての人形・人形劇・操演(者)の定義とは?
以上の神話群(想像力・思考傾向)が実際に物体を操演する所謂人形劇の延長線上に生まれたものか、はたまた真逆に物体を操演したいと願う想像力つまりは上記神話群こそが実際に物体を操演する人形劇へと繋がったのかは鶏が先か卵が先かというもので釈然としない。
釈然としないが、私たちは神話群や冒頭の怪異そして実際の操演を通じて得た知見を基に双方は同一的見解ではないのか?と考えるようになる。
そもそも赤駿や乗り手そして冒頭の怪異における操り人形たちの設定が示すように、また実際の人形劇がそうであるように操演者という存在無くして人形が勝手に動き出すということは決してない。それは自動人形だろうと動作を定めた制作者が、その体躯に組み込ませたプログラマーという名の操演者が存在する。そして例え時代が進み(自動)人形が人形を遣うようなことがあっても、全ての根本はオリジナル≒操演者の魂が握り操演を続けているに過ぎないのだ。
これはそもそも人形という文化が持つ根本的で絶対的なプロトコルが(の発現が)人形劇である、という関係性を明らかにするだろう。つまり人形単体を扱うだけでも、ただ飾っていようがままごと遊びに興じようがそこに持ち主≒遊び手≒操演者の存在が影響を及ぼさない(操演行為≒人形劇を展開しない)ことは決してないということを。
…操演者なくして、人形は存在として成立しないのではないだろうか?
この仮説は演劇学者、宮尾慈良による仮面(劇)と人形劇の考察とも一致していた。
「祭儀で仮面をつける、あるいは被る演者が呪術能力をもつというのは、霊的なエネルギーが仮面に付与しているのではない。それは心身という無の器を通して、はじめて発揮されることをわたしたちに認識させようとしてきたのではないか。(略)仮面は身体動作を通さなければ、生命を蘇えることはできない。それは人形遣いの手によってはじめて、人形が生命をもって動き出すのに似ている。しかも、仮面をつける者と人形遣いは、仮面や人形をたんなる道具として用いてはいない。むしろ演じる者の心霊が仮面を動かし、また人形をあやつるのである。」『比較芸能論 思考する身体』彩流社、頁.一四一‐一四二
仮説の構築を通して冒頭の怪異や神話の解説時に度々登場している〝魂〟という大変曖昧で何となく皆が空気を読んで読み取りそして使用している単語の定義が、操演者の心身記憶(個人の身体に蓄積される精神・感情歴や動作歴を含む多大な情報群)を指していることがはっきりと浮かび上がるようになった。
そして私たちは、まとめに入る。
人形劇とは実際に物体を操演することそのものが重要ではなく、操演者が自覚の有無関係なく自己の身心の延長線上に対象を設置する・拡張する行為(≒操演)/空間・プロトコル(≒人形劇)であることが最重要の定義(群)だとヒナワタでは考えるに至った。
これは操演の対象(人形劇が展開される空間内に入ったモノ・コトを指す)を総称して人形と明記し、その定義を〝人(≒操演者(狭義的な人間ではなく超広義的な人間))〟の〝形(≒心身)〟を成すモノ(≒操演者の一部と成るモノ)という内容への組み上げにも連なっていく。
●不安感に対抗するための人形(劇)
人形・人形劇とは何かについて現時点での答えに辿り着いた一方、残されたのは「なぜ(自分たちを含む)人間は己の心身記憶を拡張・複製したいのか?≒人形劇をしたいのか?」という疑問。
1つ前のブログで書いた『コミュニケーションと人形劇』ではこの疑問と向き合って最初に導かれた、自己の身体を隠す/人形を正に身代わりにして他者と対面する(人形劇を構築する)ことでコミュニケーションにおける潤滑油として活用しようとしたという仮説起源史について書いた。
だが、他にも理由があるのではないか。そう思ったのはこれまで見てきた怪異や神話に共通して殺し合い・殉死・墓という死の影が多数登場していることに強い引っ掛かりを覚えたからだ。
引っ掛かりはやがて、死への不安を克服するケア・ツールとして人形(劇)が誕生したのではないか?という仮説起源史としてまとめられていく。
この仮説起源史こそ、私たちが形は昼のまねに代表される怪異たちに強く惹かれた理由の明文化だった。
私(たち)がそうであるように、不安症のパニック発作時に湧き上がる死の恐怖ほど恐ろしいものはない。突然胸に湧き上がるぐわぁッとした動悸、身体中の血がざぁッと流れ落ちるような感覚、一瞬の無重力の後に地面へと叩き付けられるような眩暈、思わず漏れ出そうになる叫びを必死に噛み殺して、そしてこれら身体症状と共に訪れる「私は今この瞬間にも死ぬのではないか?」という強い不安感…今この瞬間に私は消え去り、二度と目の覚めることのない暗闇に同化してしまうのではないか?そんな恐ろしさに身心が震えておかしくなりそうなあの時間。
そんな死への恐怖、不安感を抱えているのは何も当事者だけではない。自分たちが少しばかり強くそして突拍子もなく発現されるだけで全ての人類が抱えている共通する悩みであることは世界中に宗教が根深く存在していること、何より医療が発展を続けていることからも明らかだ。
だからこそ、その歴史の発端に、その根源的な対策の一つに人形(劇)が産声を上げたのではないのか?
そこには自己の魂を複製・分割・拡張・収納することで身体無き後も己が生き続けることを約束する、宗教/神話としての役割が。
同時に身心を拡張することで俯瞰的に自己と向き合うことが可能となり、その落ち着きはらった人形(既に死を乗り越えた無機物としての自己)という存在から精神的安心感を得るという民間療法的カウンセリングの役割が見込まれていたのではないのか?
この仮説に帰着した瞬間、人形劇団ヒナワタは本格的に脈動を始める。コミュニケーションの潤滑油として、そして不安を減少させるケア・ツールとしての役割を備えた人形劇という自分たちが求め目指す、そして還るべき姿をやっと見つけた(言語化できた)からだ。
だから今日も、自分たちは人形劇を創る。
自分たちのために、当事者のために。
当事者になってしまうかもしれない人々のために、線の上で戦っている人々のために。
当事者という言葉が無くなる日にも、当たり前のようにそこにあるために。
今日も人形劇を創る。
創るしかないのだ。